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ギブソン (楽器メーカー)

ギブソン・ギター・コーポレーション (Gibson Guitar Corporation) は、アメリカテネシー州ナッシュビルに本拠を置く楽器メーカー。主にアコースティック・ギターエレクトリック・ギターを製造している。

概要

アコースティック・ギターエレクトリック・ギターの他にマンドリンバンジョーアンプストラップピックなども製造しており、業界において世界で極めて著名な会社の一つである。

 子会社には、クレイマー (Kramer)とスタインバーガーヴァレー・アーツ及びベースギター専門のトバイアス (Tobias)、ピアノのボールドウィンエフェクター及びMIDI機器製造のオーバーハイム、ドラム製造のスリンガーランド (Slingerland) がある。

 その他関係する会社として、ナッシュビルへ移転する前の従業員により設立されたヘリテイジ (en:Heritage Guitars) がある。その他、メンフィスにおいても、カスタム・ギターの製造・販売を行っている。

 2013年ティアックを子会社化、ローランドからCakewalk社を買収することが報じられた。

来歴

 その創業は、職人であったオーヴィル・ヘンリー・ギブソン(Orville Henry Gibson, 1856年 - 1918年)が、1894年に、ミシガン州カラマズーマンドリン製作を始めたことに遡る。

 1902年には、販売会社として、the Gibson Mandolin-Guitar Mfg. Co, Ltd. (ギブソン社)が設立される。オーヴィルは、自らの意思で経営を筆頭株主だったジョン・W・アダムスらに任せ、1908年以降、ブランド名と彼が取得した特許の使用料として年俸500ドルを受け取るのみで、コンサルタントとして工場に出向いて製作上のアドバイスをする以外に会社経営にはまったく関わることはなかった。1907年から1911年にかけ、入退院を繰り返し、1916年カラマズーを離れ再び入院し、1918年死去した。

 1920年代から1930年代にかけ、ギブソン社は、数々のギターのデザイン革新に貢献し、特に当時在籍していたルロイド・ロアーの設計によるモデルL5により、アーチトップ・ギターのトップ企業となった。また、1923年にロイドが製作したF5のマスターモデルのフラットマンドリンを、ブルーグラスミュージックの父とされるビル・モンローが使用していたため、ロイドが当時製作したマンドリンは市場で数千万円という価格で取引されている。

 1936年には、一般的には世界初コマーシャル・ベースのエレクトリックギターであるモデル、ES-150を発売した。

 1952年、ギブソン社はギタリストのレス・ポールとの共同でソリッドギターを設計、レスポールモデルとしてフェンダー社ストラトキャスターと共に、エレクトリックギターのスタンダードとなる。その後、1950年代末においてエクスプローラーフライングVといったシリーズを発表、突飛なデザインのものでモダニステックギターと呼ばれた。世には出なかったが、モダーンやフューチュラといったモデルが、図面やごく少数プロトタイプで存在する。他にも、セミアコースティックES-335や、当時在籍していたセス・ラヴァーが開発した、ハムバッキングピックアップ(通称:P.A.F、このピックアップの背面に特許出願中の意であるPatent Applied Forと書かれたシールが貼られていたことから)の導入といった数多くの革新的な製品を世に送ることとなる。レス・ポールモデルは、1960年にモデルチェンジにより、翌年にダブルカッタウェイでボディの薄いSG(通称・レスポールSG)になったが、レス・ポール本人はSGを気に入らず、ギブソン社との契約は一時途切れた。

 その後、エリック・クラプトンピーター・グリーンなど、著名ミュージシャンがオリジナル形状のレス・ポールモデルをこぞって使ったことが要因となり、中古市場も高騰するほどの強い支持の下、人気に後押しされるようにレス・ポールとの再契約の上、1968年後半にオリジナルを再発売、SGはレスポールとは異なる別モデルとなった。しかし、完全にオリジナル通りのスペックでの再発はさらに数年を必要とすることになる。現在も生産され続けるレスポールとSGはともに、ハードロックギタリストに非常に人気がある。その一方でバンジョー業界でも、ブルーグラスバンジョーの祖として知られているアール・スクラッグスが使用していたバンジョーを同じインレイ、装飾でスクラッグスモデルとして販売した。このバンジョーは現代でも根強い人気を持っている。

 1974年から1984年に掛け、ギブソンギターの製造の中心はカラマズーからナッシュビルへと移転した。しかしながら、年齢など様々な要因でナッシュビルに移ることが出来なかった職人達が中心となってカラマズー工場の操業が続けられ、ヘリテイジとして現在に至っている。時にヘリテイジは「もう一つの、または古き良きギブソン」と呼ばれることもある。

1986年に、ヘンリー・ジャスコヴィッツ、デイヴ・ベリーマンなどにギブソン社は買収され、新たな体制の下、会社の再編が行われていく。翌1987年、カントリー・ジェントルマンを発売。

 2012年1月音響機器メーカーオンキヨーに資本参加、13.40%の株式を保有し第2位の大株主となり、さらに、同年同月にオンキヨーと資本提携をしたティアックと、2013年3月29日資本・業務提携契約を締結することで合意した旨発表、4月1日から株式公開買付けを開始。ティアックを子会社化する予定である。

同社の看板商品であるレスポール・モデル

 エクスプローラー

   J200モデル

    ES-175

    ES-335

概要

本社はアメリカ合衆国アリゾナ州スコッツデールにあり、製造拠点としてカリフォルニア州コロナ工場、メキシコのエンセナーダ工場を持つ。カスタムショップの所在地や上位機種の製造はコロナ工場で行っている。またその他、スクワイアやアーティストシグニチャーといった廉価版楽器の製造下請け会社としてサミックやサンハン、コルト、ダイナ楽器などが請け負っている。

 旧社名はFender Electric Instrument Manufacturing Company。エレクトリックギター、エレクトリックベース、ギターアンプの製造販売を行う会社としては同じくアメリカ合衆国のギブソン社などと並んで世界でも屈指の企業として認識されている。また、ソリッドボディのエレクトリックギターを世界で初めて量産したことでも知られる。なおフェンダー・アンプに関しては独立して別稿を設けているため、そちらを参照。

歴史

 フェンダーが試作したラップ・スティールギターのスケッチ(1944年)

前身は1938年にレオ・フェンダーがカリフォルニア州フラートンで創業した「フェンダー・ラジオ・サービス(Fender's Radio Service)」で、ラジオ受信機音響機器の修理を行っていた。1945年にフェンダーはドク・カウフマンと共に「K&Fマニュファクチュアリング」を設立。スティール・ギターとアンプの製造を開始する。しかし1946年、カウマンとの共同経営は解消、1947年社名をフェンダー・エレクトリック・インストゥルメント・カンパニーに改名する。

 エレクトリックギターは1920年代後半から数多くの製造業者によって作られていたが、それらの多くは胴体の部分が中空のホロー・ボディと呼ばれる構造であった。また、ソリッド・ボディ(胴体部が中空でない構造)であってもリッケンバッカー社のハワイアン・ギターのように特殊な奏法向けであったり、ポール・ビグスビー製作の通称「ビグスビーギター」のようにオーダーメイドであったりしたため量産型のソリッドボディのエレクトリックギターは存在しなかった。レス・ポールもソリッドボディのギターの開発を進めていたがギブソン社からレスポールモデルが発売されたのは1952年である。

フェンダーは1948年頃にソリッド・ボディのエレクトリックギターの試作品を完成させ、1949年エスクワイヤーとして発表。1950年にはブロードキャスターを発表、1951年テレキャスターに改称、その理由はグレッチ社のドラムに同音の商標(綴りは「Broadkaster」)のモデルが存在したからである。

 対応を迫られたフェンダー社は極短期間だがヘッドのデカールのモデル名を切り取って販売を続けた。これは通称「ノーキャスター」と呼ばれる。実質的にはテレキャスターが世界初の量産型のソリッドボディ型のエレクトリックギターと言える。同年世界初のエレクトリックベースであるプレシジョンベースを発表。フレットを採用し正確な音程を得ることができるプレシジョンベースは当時革命的であった。1954年にはストラトキャスターを発表。その後も1958年ジャズマスター1960年にはジャズベース1962年に当時の最高級機種であるジャガーを発表するなど、現在も多くのミュージシャンに愛用されている名器を生み出した。

 フェンダーのギターやベースの特徴としてソリッドボディの量産以外にボルトオンによるデタッチャブル・ネック方式が挙げられる。従来のセットネック方式(膠での接着)に比べ格段に修理などが容易になり、この方式は現在多くのギターメーカーで採用されている。

 エレクトリックギター産業の先駆者として多くの楽器を発表したフェンダーだが、1965年CBS社に売却され法人としての「フェンダー社」は無くなる。

 また、同年V.C Squier社を買収する。同時にフェンダーは経営者から技術顧問として同社に残るも僅か数年で退社している。健康上の理由と新たに開発した技術を新体制のフェンダー社が積極的に採用しなかったためとも言われている。その後は楽器業界の低迷による売り上げの低下による業績不振、さらにフェンダー社製品の品質低下に加え、廉価なコピーモデルの横溢によって自社の市場が脅かされるなど企業として弱体化が進む事態を迎え、1980年代初め頃にはストラトキャスターなど看板商品が一時生産を終了するにまで至った。

 1982年に日本での販売拠点として、フェンダーとフジゲンを筆頭株主とし、山野楽器や神田商会などが出資した株式会社フェンダージャパンを設立する。 1985年、CBS社の楽器部門の撤退により、ヤマハなどに在籍していたビル・シュルツを最高経営責任者に迎えてフェンダー社が再興される。同年に製造拠点を失っていたため、フジゲンの技術支援のもとコロナ工場を建設。 1987年に新たな工場拠点としてフェンダーとフジゲンでそれぞれ4800万円を共同出資し、メキシコ法人のフェンダーメキシコを設立する。同年にオーダーメイド部門のフェンダー・カスタム・ショップを設立。 1997年にバブル崩壊後、多大な負債を抱えていたフジゲンがフェンダージャパンとフェンダーメキシコの株式を売却し、フェンダージャパンは吸収合併され消滅、フェンダーメキシコは完全子会社となる。

 2012年に、新規株式公開(IPO)を申請。同社は2.4億ドルの長期負債を抱えており、IPOで調達した資金は負債の返済に充てると見られている。IPO申請時の株式保有率は、米ウエストン・プレシディオが42.92%、山野楽器が14.28%、神田商会が12.85%となっている。

 2015年3月20日、山野楽器との販売代理店契約を終了し、フェンダーが日本に現地法人を立ち上げることを発表した。

 4月1日より新たに立ち上げられたフェンダーミュージックジャパン株式会社が業務を引き継ぐ。

フェンダー (楽器メーカー)

フェンダー(Fender Musical Instruments Corporation )は、レオ・フェンダー1946年に創業した楽器メーカーである。主にエレクトリック・ギターアンプの製造を行っている。

フジゲン

フジゲン株式会社(英称:Fujigen Co., Ltd.)は、長野県松本市平田東に本社を置く楽器製造メーカー。旧社名は富士弦楽器製造(1989年4月に現社名に変更)。 トヨタ自動車のレクサスなどのウッドパネルの製造やアイバニーズの上位機種(J.CustomやPrestige)やG&Lの楽器を製造する下請会社。 また、日本に流通しているギブソンの楽器の検品も行っている。また近年ではOEM生産だけでなく、FGN Guitarsとして自社ブランドのギター・ベースを製造、国内外への販売を展開している。

概要

 

フジゲンのオリジナルブランドの一つであるFGN

 

フジゲン製造のibanez JEMを演奏するスティーヴ・ヴァイ

エレキギターの生産本数は1日120~130本であり、その内の約90%がアイバニーズなどのOEM製造、残り10%が自社ブランド(FUJIGEN、FGN)である。バブル期には1日500本を生産していた。[1] オンラインショップを展開しており、そこで自社ブランドのオーダーや販売を行っている。

 また、現在ではギター以外にもオルゴール和太鼓などの製作している。 東京都池袋にカスタムショップが存在し、修理などのユーザーサポートの他、オーダーメイドの受注にも幅広く対応している。

 楽器製造業務の他にも、その高い木工技術を応用して蕎麦打ち道具や、主にトヨタ自動車向けのウッドインパネ等の木製内装材を製作している。現在はこちらの業務の売上高が社内でのシェアの大半を占めている。

歴史

大阪屋商事の社長であった三村豊が1960年5月に鈴木バイオリンの子会社を買収し、中学の同級生であった横内祐一郎と共に共同出資でギターの製造会社の富士弦楽器製造を創業した。 創業当初はクラシックギターが中心であったが、1960年代後半からは星野楽器のアイバニーズや神田商会のグレコといったブランドでギブソンやフェンダーなどの有名ブランドのエレキギターのコピーの下請け楽器製造主体へと切り替わっていった。

 1977年にギブソン社が偽造品を製造していた日本の楽器メーカーに対して一斉に訴訟を起こす。富士弦楽器製造もアイバニーズやグレコなどの製品で著作権侵害があるとして、15億円の損害賠償請求の訴訟を起こされる。 しかし、富士弦楽器製造が合法的に国内でコピー品を製造するために『ギブソン』などの様々なメーカーの日本国内での商標を以前から無断取得していたため、ギブソン側が劣勢となり、商標権を全て引き渡す事で和解に成功する。

 ただ、この事をきっかけに国内ではモラルが問われるようになり、アイバニーズやグレコなどではデザインの一新が行われ、神田商会やヤマハなどと共同でコピー品の自粛呼びかけ広告を出されるなどした。アイバニーズでは以降のオリジナルモデルへの分岐点となり、現在では、訴訟以前の製品は「ibanez Lawsuit」と呼ばれている。アメリカ国内では、ジョン・スコフィールドなどはこれらのロゴを消すなどして使用していた。[2] 1978年ローランドと合弁で「富士ローランド」を設立し、ギターシンセサイザーを発明する。

フェンダーとの技術提携へ

ギブソンなどと同様に日本国内の偽造品問題を抱えていたフェンダーは、新たな対策として偽造品を製造する下請け会社に自社の正規品の下請け製造を発注する事で偽物と差別化する計画をする。

 それに際し、ギブソン訴訟以降合法的なブランド品販売を模索していた神田商会と富士弦楽器製造との利害が一致し、1982年からフェンダーの子会社「株式会社フェンダージャパン」をフェンダー、富士弦楽器製造、神田商会、山野楽器の共同出資で設立。

 フェンダーの日本や新興国向け製品のフェンダージャパンやスクワイアを製造することとなった。多くの企業の下請けを行っていたのもあり1983年には世界一のギター出荷量となる。1985年にCBSがフェンダーをビル・シュルツに売却し、工場拠点を失ったフェンダー社から技術支援を求められ、アメリカに杉本眞(現Sugi Guitars)などをはじめとする技術支援チームを送り工場新設を支援した。この工場の建設から完全な可動体制が整うまでの1984年から1987年の間、富士弦楽器製造のOEMによる『フェンダー』ブランドのギターやベースがアメリカ国内で多く流通された。 1986年にフェンダーと富士弦楽器製造の共同開発の新ギターブランドとしてハートフィールドを設立。フェンダー側からはJohn Pageといったフェンダーカスタムショップのメンバーも参加し、現在のオリジナルブランドで扱っている『Elan』などもこの時にデザインされた。[3]1987年、フェンダーとの技術協力やアイバニーズの製品開発拠点としてアメリカ支社のR&D Guitar inc.を設立する。また同年にフェンダーとそれぞれ4800万円の共同出資を行い、フェンダーメキシコ社を創業。 1988年にギブソンと和解し共同で日本国内のコピー品対策のブランドとして『オービルbyギブソン』やエピフォンのインペリアルシリーズを設立。 1989年にフジゲン株式会社に改名する。1991年に塗装を専門に行う工場としてフジゲン広丘株式会社を設立。

バブル崩壊後

1990年代になると新興国の企業に下請け製造のシェアを奪われるようになり、日本の景気悪化と工場など設備投資などが重なり多大な負債を抱え始め、1993年にフェンダーとの共同子会社のハートフィールド社の倒産、エピフォンのインペリアルシリーズ製造中止など製造ラインの縮小化が行われる。1997年にはフェンダーメキシコとフェンダージャパンの株式を売却し、フェンダージャパンとオービルbyギブソンは解散することとなった。

 2000年代からトヨタ自動車のウッドパネルの下請けを開始。

 2001年、東京都の池袋にオーダーギターを請け負ったり、自社ブランドの楽器を販売するカスタムハウスを開店。

 2005年には渋谷にもカスタムハウスを開店するが2008年に閉店。[4] 2008年にギターの製造業務を大町工場に移転。

Musical Instrument Maker-3

楽器メ-カ-アラカルト-3

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