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Singer-Guitarist-Band-Drummer-Bassist

ミュ-ジシャン・ギタリスト・バンド・ドラマ-・ベーシスト

尊敬する・・・・

デュアン・オールマンはアメリカのセッションミュージシャンでありサザン・ロックのオールマン・ブラザーズ・バンドのリードギタリストです。
   その名演の数々はオールマン・ブラザーズ・バンドの作品で聴くことができますが、デュアンのセッション・マンとしての演奏も必聴です。オールマン・ブラザーズ・バンドの活動に加え、定評のあるセッションミュージシャンとしての生活を送っており、キング・カーティスやアレサ・フランクリンなどの作品に参加しました。またエリック・クラプトンの大ヒット曲「いとしのレイラ」にも参加、プレイヤーとして重要な役目を果たしています。
   いまやロック・スタンダードとなったデレク&ザ・ドミノスの「レイラ」やボズ・スキャッグスの「ローン・ミー・ア・ダイム」、ウィルソン・ピケットの「ヘイ・ジュード」といった作品では、ギターがなかったら曲が成立しないほど、彼の存在は重きをなしています。脇役のはずが、主役になってしまう彼の凄みが感じられるでしょう。

   彼のプレイの代名詞であるスライドギターによる即興的な演奏は、多くのミュージシャンに多大な影響を与えています。

デュアンは数々のセッションを経て当時絶頂期にあったサザン・ソウルのフィーリングを身体で覚えて行きました。南部からロックの新しい波を発信する準備が整い、1969年彼らの記念すべきデビュー・アルバム「オールマン・ブラザース・バンド」が発売されました。それは、南部の田舎町から全米の音楽業界に向けて発せられた初めての挑戦状でもありました。それまでのロックとはひと味違う南部独特の香りに満ちソウルフルなフィーリングにあふれた新しいロック・スタイル、「サザンロック」が生まれたのです。

   デュアンは交通事故によって24歳という若さで早すぎる死をむかえましたが、オールマンズはその悲しみを乗り越えデュアンの魂と共に名盤を残していきます。彼らの売りは、けっしてオールマン兄弟だけではありませんでした。デュアンとともに絶妙のツイン・リード・ギターを聞かせてくれるディッキー・ベッツやその後のサザン・ロックのお家芸ともなったブッチ・トラックスとジェイミー・ジョンソンによるツイン・ドラムなど、メンバー全員が主役級の連中でした。そして、これら全員の実力が発揮されるライブこそ、彼らにとって最高の実力を見せることのできる場であり、それを証明してみせたのが、サンフランシスコのフィルモア・イーストでのライブを録音した「フィルモア・イースト・ライブ」でした。

デュアンは酒ビンの首の部分を左手の薬指にはめ、フレットの上を滑らせ、人声のヴィブラートのような音を出すブルースの伝統的奏法、スライド・ギターの名手でした。大ナタで薪を割ったごとくザックリとした感触の引き摺るような音色のスライド・プレイは多くの人々に衝撃を与えました。

   彼がスライドを弾くきっかけとなったのはブルースではなく、ジェフ・べックやジェシ・エド・デイヴィスなどのロック・アーティストを聴いてからだといいます。伝統に、ロックならではのフル・ヴォリュームなエレクトリック感覚を加えた豪快な奏法で、ミュージック・シーンに革命を起こしました。

使用エレキギター

  赤のギブソンSGギブソン・レスポールを好んで使用していました。

Biography

1946年11月20日 生 米テネシー州ナッシュビル
12才の頃、兄のグレッグからギターを教わり熱中するようになります。アワー・グラスというバンドを結成し、ミュージック・ビジネスの中心地、ロスに進出しました。彼らはそこでリバティー・レコードと契約しレコード・デビューを飾りました。しかし、彼らは「南部出身のアイドル・バンド」として売り出され思うような活動をさせてもらえませんでした。結局、彼らは結果を残すことができないままロサンジェルスで解散します。

タジ・マハールの演奏やウィリー・マクテル(willie mactell)のステイツボロ・ブルース(statesboro blues)、ジェシ・エド・デイヴィス(jesse ed davis)を聞いて、彼はエレクトリック・スライドギターをレパートリーに加えます。スライドギターはのちにオールマン・ブラザーズ・バンドのトレードマークになりましたた。彼は当時絶頂期にあったサザン・ソウルのフィーリングを身体で覚えて行きました。

71年にオートバイ事故で死亡。享年24才。

デュアン・オールマン(Duane Allman)

もはや説明不要のエレキギターの神様。エレキギターの観念を根底から覆した・ギターの持つポテンシャルを最大限に引き出すことのできた人物、それがジミ・ヘンドリックスではないでしょうか。
 ロック音楽のルーツを辿っていくときにジミ・ヘンドリックスにたどり着かない道はありません。また、彼のギタープレイに直接影響をうけてないにしろ、現代のギタリストのプレイは彼の延長上にあるのではないかとさえ思います。

 活動期間は約4年間、公式アルバムは僅か4枚と短いキャリアにもかかわらず現在、彼に関連するCDは100を超え、ブートレッグを含めればその数は把握できません。

 当時の録音のクオリティは無視して、彼の弾くフレーズ、表現している世界観ともに微塵もさびれることがなく今でも曲が使用され、また現在の音楽シーンのギターを聴くことでジミ・ヘンドリックスからの影響を確認することができる事実。
 時代を超えた音楽・ギタープレイをジミ・ヘンドリックスは残しています。

ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)

1966年12月にシングル「ヘイ・ジョー」でデビュー(最高位全英6位)。ライヴの評判とともにたちまちスターへの道を歩み始めます。
 『アー・ユー・エクスペリエンスト ?』(67年5月)『アクシス:ボールド・アズ・ラヴ』(67年11月) 『エレクトリック・レディランド』(68年10月)の3作をリリース。1969年8月の『ウッドストック・フェスティヴァル』でヘッドライナーを務め、「星条旗よ永遠なれ」の伝説的なライヴを残した。1970年6月、ライヴ・アルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』をキャピトルから発売(全米5位記録)。1970年8月末、 4枚目のアルバムのレコーディングを終え、トラックダウンを開始する前にヨーロッパへ。
 ワイト島フェスティヴァル(8月30日)、ラヴ・アンド・ピース・フェスティヴァル(9月6日)に出演した直後の9月18日、ロンドンのサマルカンド・ホテルで昏睡状態に陥り急死。

享年27才。

ギタープレイの特徴

1968 FENDER STRATOCASTER

ワウペダルの使用や音作り、ジミヘンコードと言われるまで自己主張するコード感、またコード分解させたバッキングのソロワークなど。フレーズの発想方法やギターの弾き方など、エレキギターを追究し続けました。
彼のギタープレイは実験的な部分も多いですが、基本はあくまでブルースやR&Bに根差し、これにジャズのコードやスケールを加えたベーシックなものです。
ただし音の選び方やフレーズの展開は強烈に非凡なもので、従来からのブルースやR&Bの枠に収まらないような画期的なフレーズの連続だったのです。

使用機材

エレキギター

27年の短い人生の中で一貫してフェンダー・ストラトキャスターを使用していました。左利きだったジミは右利き用のストラトキャスターに左利き用の弦を張って使用していたのです。

ストラトキャスターも他にもギブソン・フライングVを持った映像は数多く残っている他、ギブソンSGギブソン・レスポールやビザールと呼ばれる国産の変形ギターを使用することも稀にありました。

Jimi Hendrix Stratocaster

Biography

1942年11月27日 生 米ワシントン州シアトル

父のアル・ヘンドリックスは陸軍に在住していたため、母のルシールの手で育てられますが、ルシールもジミを放り出して外へ遊びに出かけることが多かったらしく、7歳の頃には弟レオンと一緒に親戚に預けられ、その後、両親は離婚。ルシールはジミが15歳の頃にアルコール中毒で死亡、その葬式にはアルもジミも参列しなかったというから、決して幸せな家庭環境に恵まれたとは言えません。しだいに不良グループの仲間入りをするようになり、窃盗などの罪で警察に逮捕されてしまいます。しかし、そこで彼は刑務所行きの代わりに軍隊への入隊を志願。そこでエレキギターを本格的にマスターすることになりました。

 訓練で負傷し、1962年に軍隊を除隊。同じ部隊にいたことで知り合ったビリー・コックス(b)と、ナッシュヴィルを拠点にバンド活動を再開。そしてニューヨークに移り、ウィルソン・ピケット、リトル・リチャードなど40以上のバック・バンドに参加します。
 アイズレー・ブラザースのバック・バンドでは、ギタリストとして注目を集めるようになりましたが、彼の目立ちすぎるパフォーマンスは、多くのミュージシャンたちに煙たがられるようになります。1966年、ジミは自分のバンド、ジミー・ジェイムズ&ザ・ブルー・フレームスを結成。この頃のジミのプレイの噂を聞きつけた元アニマルズのチャス・チャンドラーがジミをイギリスへと誘い、ロンドンに降り立った彼は1ヵ月後、ノエル・レディング(b)、ミッチ・ミッチェル(ds)と共にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成します。

フェンダー・メキシコ工場で生産される、ヴィンテージトーンとクラシックスタイルが融合されたシグネイチャー・モデル「Jimi Hendrix Stratocaster」は、完全に右利きギタリストのために設計されながらもリバースヘッドを採用し、ジミのフィーリングまで再現したモデルです。
カラーラインナップはオリンピックホワイト、ブラックの2種類。アルダーボディ、メイプルネックはミディアムジャンボの”C” Shape、ピックアップは American Vintage ’65 Gray-Bottom Single-Coil Strat を3基というスペックとなっています。

ブラッキー (ギター)        and Eric Crapton

ブラッキー (Blackie) は、エリック・クラプトンが愛用したフェンダー・ストラトキャスターに名付けられた愛称。および、この個体をもとにフェンダー社のカスタムショップが製造販売したストラトキャスターの商品名。

「BLACKIE」はフェンダー社の商標として登録され、Rマークが添付されている。

歴史

クラプトンは1970年にジミ・ヘンドリックスブラインド・フェイスのバンドメイトであるスティーヴ・ウィンウッドの影響を受け、それまで使用していたギブソンのギターではなく、ストラトキャスターを使用するようになった。始めに使っていたストラトキャスターは2カラー・サンバースト(ブラウン・サンバースト)のフィニッシュだったので、ブラウニーという名前を付け、『いとしのレイラ』で使用した。

   同じ年、クラプトンはナッシュビルにあるショー・バッドの楽器店に入り、ここで6本のヴィンテージ・ストラトキャスターをそれぞれ"一本たった100ドル"で購入した。6本のうち3本をジョージ・ハリスンピート・タウンゼントスティーヴ・ウィンウッドに譲り、残された3本を分解して最良のパーツを選び出して(1956年~1957年のものだった)、このブラッキーを組み上げた。この名前の由来はフィニッシュがブラック(黒)だったからである。同年代のストラトキャスターで黒はオプションのカラーだった為、非常にレアなものである。

   ストラトキャスターは当時ジャガージャズマスターにシェアを奪われ、不人気機種とされていた為、一時生産打ち切りを真剣にフェンダー社が考えたほどであったことから、楽器店のみならず質屋でも捨て値同然で売られていたため、クラプトンもこれだけのギターをまとめて買うことができたという事情がある。その後ジミ・ヘンドリクスの登場によってストラトキャスターが再評価されるまでこの傾向は続いた。現在では一本数万ドルで取引される個体も存在することは周知の事実である。

   初めて演奏されたのは1973年1月13日で、アルバム『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』にその模様が残されている。クラプトンはその後もステージ、スタジオ、プライベートと弾き続けて、ヒット作を多数残す。しかし1985年に行われたハートフォードでの公演を最後に、老朽化を理由にブラッキーを引退させてしまう。毎日のように弾き続けていたため、メイプル製ネック自体の木材が大きく磨り減り、スキャロップ指板のようだったという。

世界最高額のギター

クラプトンが設立したドラッグとアルコールのリハビリ施設、クロスロード・センターを支援するために、ブラッキーをクリスティーズの競売に出品。これを楽器チェーン店を経営するギター・センターが95万9500ドルで競り落とし、史上最も高価なギターとなった(これは2004年に260万ドルで競り落とされるまで続いた記録)。

2006年11月24日、フェンダー社はブラッキーを復刻して限定275本を販売。発売後の数時間で売り切れ、収益の一部はクロスロード・センターへ寄付された。

世界三大ギタリストと評される内の一人、エリック・クラプトン(他二人はジェフ・ベックジミー・ペイジ)。"ギターの神"と評されることもあります(もちろんジミ・ヘンドリックスは別格です)。ギタリストとして、ボーカリストとして、作曲者として常に第一線で活躍し、60年代から現在に至るまで活動を続けているアーティストです。

 彼の人生は常に苦悩に彩られていました。周りの人間の死(彼の親友であるジミ・ヘンドリックス、スティーヴィー・レイヴォーン、また実の息子の死など)、恋の苦悩(ビートルズのギタリスト、ジョージハリソンの妻パティとの三角関係)、アルコール中毒、ドラッグ中毒など。。。

 しかし彼は苦境が訪れるたびに、時には親友の力を借りて、それを乗り越え自らの音楽に深みを加えてきました。

Biography

1945年3月30日 生 英サリー州リプレー
母親は当時16歳の未婚の母で、生まれたばかりのクラプトンを残して別の男と駆け落ちをしてしまいます。そのためクラプトンは母親の両親(祖父母)に引き取られることとなりました。10代になりマディ・ウォーターズやロバート・ジョンソンの影響によりブルースにのめりこむようになります。遂には祖父母に頼み込んでアコースティック・ギターを買ってもらうことになりました。’60年代初頭、学生時代の友人にルースターズを紹介されるも、半年ほどで解散。そんな時、ヤードバーズからのオファーがクラプトンのもとに転がり込んできました。このヤードバーズに参加したことがクラプトンにとってもヤードバーズにとっても大きな転機となるのでした。

ヤードバーズ(The Yardbirds)時代

ローリング・ストーンズが全米デビューしたことで、数多くのクラブからバンドの出場枠が空きました。そんな中にストーンズの後釜として抜擢されたのがヤードバーズでした。クラブの中で徐々に人気を博していったヤードバーズに目をつけた一人の男がプロデューサーのジョージオ・ゴメルスキーです。彼とマネージメント契約を結んだヤードバーズは念願のメジャー・デビューを果たし、全国規模のツアーをこなし、バンドの知名度は上昇していきました。

 ゴメルスキーはさらに売れるためにブルースよりも多くの一般に受け入れられるポップ路線にバンドを走らせようとします。そのためゴメルスキーは3rdシングルに「For Your Love」を用意します。明らかなヒット・チャート狙いのゴメルスキーのやり方に不満を抱いたクラプトンは「For Your Love」で完全にキレてヤードバーズを脱退するのでした。

ブルース・ブレイカーズ(John Mayall & The Bluesbreakers)時代

 次にクラプトンが加入したのは、当時のブリティッシュ・ブルース・シーンで人気を誇っていたジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズでした。そこで残した作品『Bluesbreakers With Eric Clapton』は今でも名盤として名高い作品です。

クリーム(Cream)時代

 その後、自分の音楽性の追及により’66年に“史上最強のロック・トリオ”クリームを結成。3人のアドリブの応酬によるライヴが話題を呼び絶大な人気を誇ることになります。しかし、3人の個性が衝突して出来上がるものだっただけに確執も深まりクリームは’68年に解散してしいます。

数々の苦悩を経て…

次にクラプトンは当時スーパー・バンドと呼ばれたブラインド・フェイスを結成、しかしこの頃からドラッグとアルコールに入り浸るようになっていくのでした。

その後、ブラインド・フェイスのアメリカ・ツアーで出会ったデラニー&ボニーの影響でデレク&ザ・ドミノスを結成するも’71年に解散。その後しばらくドラッグとアルコールに入り浸る隠遁生活を続けます。

リハビリによってドラッグとアルコールを克服したクラプトンは『461 Ocean Boulevard』で完全復活を遂げます。以降クラプトンは独自のソロ路線を突き進むも彼に"愛する息子の死"という悲劇が訪れたのでした。これに対しクラプトンは鎮魂歌として「Tears In Heaven」を息子に捧げます。この曲により幅広いファン層を獲得することとなりました。(1992年に全米シングルチャート第2位を記録)

近年、ロバート・ジョンソンのカヴァー・アルバム『Session For Robert J』をリリース、ジョン・メイヤーとの競演など、彼のブルースの旅は今も続いています。

ギタープレイの特徴

ヤードバーズ、ブルース・ブレイカーズ、クリームでのプレイ、ブラインド・フェイスの全米ツアーで知り合ったデラニー&ボニーの南部ロックへの憧れに始まる後のソロ作から現在まで、直接的であれ、間接的であれクラプトンは一貫して大枠でブルースというスタイルを離れたことはありません。

1992年のアンプラグド(Unplugged) 大成功後に、全曲ブルースのカヴァー集"From The Cradle"を発表したことなどを思い出してもらえば、このこと理解できるでしょう。クラプトンにとってブルースとは、いわば「絶対的なもの」としてあり、「永遠の憧れ」であり、「信仰」であり、常に戻っていける「安息の地」なのです。

WonderfulTonight - Eric Clapton
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ジョン・ボーナム

1948年5月31日~1980年9月25日
本名 John Henry Bonham ジョン・ヘンリー・ボーナム

誰もが認める世界一有名なドラマー。様々なドラム、音楽雑誌において偉大なドラマーランキングでことごとく1位を獲得しており、ボンゾの愛称で知られている。
息子にジェイソン・ボーナム(UFO,Led Zeppelin)がいる。

ジョン・ボーナム:History

コールの多量摂取による窒息死によりこの世を去る。
32歳の若さだった。

  • 1964年 テリー・ウェブ・アンド・ザ・スパイダース、ザ・ブルー・スター・トリオ、ザ・セネターズなどのバンドでドラムを叩く。

  • 1968年 ヤードバーズを率いていたジミー・ペイジが新しくバンドを組むためボンゾを40回近くの電報による説得で口説き落とす。
    ニューヤードバーズからレッドツェッペリンにバンドを改名する。

  • 1980年 世界各地をツアーで回りバンド、個人的にも数多くの伝説を残しアル

ドラムプレイの特徴

ボンゾの特徴はなんと言っても唯一無二のグルーヴと言えます。
 彼独自のタイム感によるグルーヴは他者が真似できないものです。

また体格も良く音が非常に大きかったのも特徴の一つ。
 あまりのパワフルな演奏によりバスドラムのヘッドを破ったりクラブから音がでかすぎるために演奏を中止させられる事も多かったようで、当時イングランドで一番音がでかいドラマーと名が轟いていたくらいです。
 他にもレッドツェッペリンのベース、ジョン・ポール・ジョーンズはツーバスを使っていたボンゾの音が大きすぎたためバスドラムを一つ隠してしまったというエピソードがあります。

 ボンゾは26インチのバスドラムをノーミュートで鳴らせる数少ない一人です。
音量がでかくパワフルな面が目立ちますがもちろんそれだけではなく3連譜を用いたフィルやビートを良く使っていました。これらはボンゾが作ったといっても過言ではないビートやフィルであり今でも影響を受けたドラマー達が良く使用しています。
 イミグラントソングのハネる独特のビート、グッドタイムスバッドタイムスにおける頭抜き三連の演奏は彼の代名詞になっています。

TOTOのドラマージェフ・ポーカロもロザーナの有名なシャッフルパターンを作る際レッドツェッペリンのフールインザレインのドラムを参考にしたと言っています。ドラム史上最も有名で最も後任のドラマー達に影響を与えたのは間違いありません。
 またキース・ムーンとは親友であり彼のようにホテルを壊したりハチャメチャしていたようです。
彼のエピソードはとてもここでは書ききれないくらいたくさんあるので気になった人は調べてみるのも面白いかもしれません。

ドラム・セッティング

ワンバス、ワンタム、ツーフロア。シンバルも基本的なものだけのシンプルなセット。特徴はなんと言っても26インチのバスドラムで、時代によりフロアタムが3つだったりドラ、ティンパニなども使っています。

アメリカ・ツアーで一緒だったヴァニラ・ファッジのカーマイン・アピスからラディックを紹介してもらいそれからラディックの機材を愛用しています。特にアクリルオレンジやグリーンスパークルのセットは有名です。

シンバルはパイステジャイアントビートシリーズ(後期は2002シリーズ)を使用。

ドラム動画

http://www.drummerworld.com/Videos/johnbonhammobidickrah70.html
ボンゾを語る上で無くてはならない曲。
彼のソロのための曲です。
Led Zeppelin / Moby Dick

Led Zeppelin / Imigrant Song

Led Zeppelin / Rock And Roll

マイク・マンジーニ

1963年4月18日~
本名 Michael Mangini マイケル・マンジーニ

2002年~2005年にかけてドラム最速世界記録(ギネス認定)を5つも保持し、2010年には厳しいオーディションに残りDream Theaterの新ドラマーになった。

History

  • 1991年 Annihlator加入。

  • 1994年 Extreme加入。

  • 1996年 Extreme解散。

  • 1996年~2000年 Steve Vaiのドラマーとして活躍。

  • 2000年 バークリー音楽大学の講師になる。

  • 2005年 ジェイムズ・ラブリエのソロアルバムに参加。

  • 2007年 Annihlatorのアルバムに参加。

  • 2010年~ Dream Theaternoオーディションに合格し加入。それに伴い大学講師を辞める。

ドラムプレイの特徴

高速かつ正確なプレイが持ち味。
ギネス記録もうなずけます。
 特にSteve Vaiのバンドでのプレイは凄まじいです。
Vaiの曲はかなり難しいと思われるのですがそれを注文通りにこなしています。
エピソードとしては「世界最速のツーバス、世界最速のスネアロールをしながらシンバルをミュートする」というムチャぶりのようなお題を見事にクリアしてしまうほど。
 腕や足がもう2本づつくらいあるのでは?と疑ってしまうくらいのスゴワザです。
 特にワンハンドロール(グラビティロール)は右手、左手の入れ替えがいつ行われたのか分からないほど綺麗で正確です。
パワフルさ、スピード、そして正確さを兼ね揃えた最強ドラマーです。

ドラム・セッティング

ドラムセットはパール、シンバルはジルジャンを愛用しています。
180°自分を取り囲むようなセッティング。
左右対称的なセッティングを好んでいるイメージが強いです。
頭上にもタムやシンバルを吊るす形でセットする時もありそれらを高速でロールするのは圧巻の一言。
スローンはやや高め、シンバルは体からかなり離れているように見えます。
プレイするバンドに応じてその都度セッティングも変えている様子。

Jimi Hedrix
DuaneAllman
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